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2002.10.17 第6回DPI世界会議札幌大会
「生命倫理分科会・誰が決定をするのか」フルペーパー

障害者と女性−連動し補完し合う差別そして解放

米津知子


2002年10月15日〜18日、札幌で開かれる第6回DPI世界会議札幌大会に、参加することになりました。この会議は、DPI(障害者インターナショナル)が世界の障害者の「完全参加と平等の実現」をめざして、4年に1度開催します。今回の目的として、国連で障害者権利条約の制定と日本で障害者差別禁止法をつくることに力が入っています。他にも、障害者が尊厳を持って暮らす環境整備/女性障害者への二重の差別の改善/途上国における全ての人の生活安定/人々を苦しめる戦争・環境問題の改善が開催の目的です。
 思いがけず、この会議17日午後の「生命倫理分科会・誰が決定をするのか」で、スピーカー(討論のための問題提起をする役)の一人になれたのです。他のスピーカーと司会者は海外からの参加者で討論は通訳付き。そういう場には慣れてないので、出かける前からちょっと緊張気味です。
 世界会議には個人としての参加ですが、当日会場で配るフルペーパーは、障害をもつ胎児の選別の問題を、障害者の人権と女性の人権両方にかかわることとして書きました。だから、ソシレンニュースの読者にも読んでほしくて、掲載してもらうことにしました。
(2002年10月 米津知子)

はじめに

 私は、ポリオの障害をもつ53歳の女性です。女性であり障害者である立場から、生殖における差別・抑圧の問題を考えてきました。日本における人口政策・優生政策の要である刑法堕胎罪、優生保護法、母体保護法についてお伝えし、現在ひろがりつつある、障害をもつ胎児の選別的中絶の問題について、皆さんと共に考えたいと思います。
 私がこれらの問題をとおしてとくに言いたいのは、生殖への国家の介入−−人口政策・優生政策において障害者差別と女性差別はつながっている−−女性差別は障害者差別を成り立たせる要素であり、障害者差別は女性差別を成り立たせる要素になっているということ。したがって、障害者の解放のために女性の解放が、女性の解放のために障害者の解放が必要であるということです。

(1)日本における人口政策・優生政策

1 優生保護法とは

 優生保護法は1948年に成立し、1996年まで存在した。日本の刑法には1880年以来堕胎罪があり、人工妊娠中絶は基本的に禁止されている。ただし、罰せられるのは医師など中絶手術を行った者と女性で、男性は対象にならない。1945年に第二次大戦に敗れるまでは、国力としての人口を増やす政策にそって堕胎罪が厳しく適用された。この時代には避妊も非合法であった。しかし敗戦を契機に、政府は人口抑制へと政策を転換する必要にせまられ、堕胎罪を残したまま中絶を許す法律が必要になった。
 一方、政府は優生学的理由による人口政策=優生政策にも強い意欲をもっていた。すでに1940年に障害者の断種を目的とした国民優生法が作られていた。優生保護法は、この国民優生法を土台として、そこに中絶を許す条件を加えた法律である。結果として、優生保護法という1つの法律が、「不良な子孫の出生防止」(優生政策)と、「母性の生命健康の保護」(という名目で中絶を許す=人口抑制)の、2つの目的をもつことになった。

2 優生政策の強化

 国民優生法では優生学的理由による不妊手術(優生手術と表現されていた)の対象が「遺伝性疾患」に限られていた。本人の同意なしに優生手術ができる条文があつたが実施されず、本人が同意した手術の件数(*1)も、目的に反して少なかった。優生保護法は優生手術の対象を「らい病」や「遺伝性以外の精神病」に拡大し、本人の同意なしに行う優生手術を実施した(*2)。また、国民優生法にはなかった優生学的理由による中絶の規定が設けられた。このように、優生政策は国民優生法よりもむしろ優生保護法において強化された。
 優生保護法の中絶の許可条件は5つあったが、そのうち3つは優生学的理由だ(*3)。優生手術の許可条件も5つあり、そのうち3つが優生学的理由だった。優生手術の術式は規定されており、それ以外の方法による不妊化は禁じられていたが、にもかかわらず、規定外のレントゲン照射や子宮の摘出が女性障害者に実施され、この違法行為は黙認された。
 優生政策を強化する傾向は、1970年代にも続いた。薬害・公害が原因で障害をもった子どもの出生が社会問題化したことをきっかけに、胎児の障害を中絶の許可条件とする条文(胎児条項)を導入する改訂案が、72年に国会上程された。この改訂案には中絶の規制も盛り込まれており、障害者と女性の強い反対運動によって改訂は阻止された。しかし、胎児の障害を理由とする中絶が行われていないのではなく、中絶の許可条件のうち、「経済的理由」を拡大解釈することで行われている。

3 優生保護法は、女性の生殖における権利を回復したか?

 そもそも女性は国家の人口政策の道具にされてはならず、子どもをもつかもたないかは、カップルとくに女性の意思が尊重されるべき問題だ。子どもをもたないことを選ぶ人に、避妊と人工妊娠中絶はその意思にもとづいて合法的に、安全に行われなければならない。
 1945年の敗戦時まで、厳しく適用された堕胎罪で苦しんできた女性が、優生保護法によって堕胎罪に問われる不安なく中絶ができるようになったことは重要だ。しかしそれが、優生学的な目的をもち、障害者の生殖の権利を奪う優生保護法においてしか実現しなかったのは不当なことだ。また、優生保護法において中絶と不妊手術は、許可条件に該当するかどうかを医師が認定し配偶者が同意することが必要で、女性の意思にもとづいて行えるのではなかった。堕胎罪は存続しており、適用される可能性が無くなっていない。
 優生保護法の成立は中絶の本当の合法化ではなく、女性の権利の確立でもない。女性を人口政策・優生政策の道具にし続ける政策だったといえる。

 1996年、優生保護法から優生学にもとづく条文だけを削除する改正で、母体保護法が成立した。改正によって、優生上の理由による不妊手術(優生手術)と中絶の規定がなくなった。しかし、中絶には医師の認定と配偶者の同意が必要であることは、母体保護法でも同じだ。優生学にもとづく条文が障害者に対する差別であることが改正の理由だったが、国の反省は表明されず、改正の意図が国民に衆知されていない。そのため、長い年月をかけて国民に印象づけられた優生思想は、ぬぐい去られていない。女性障害者の子宮の摘出をはじめとする障害者の生殖の権利侵害が、まだ行われているおそれがある。

4 女性差別と障害者差別はつながって、補いあっている

 日本における人口政策は、人口の"量"の管理だけでなく"質"を管理する優生政策を含んできた。それは主に女性の生殖のコントロールを通して実現され、女性は、直接手を下して障害者の出生を阻む役割を担わされている。ここには、性差別も関与している。

 性差別のある社会は、女性と男性の役割を分けてきた。物品や金銭的な価値をつくり出す役割は男性に、家事・育児・介護といった役割は女性に割り振られてきた。女性が担う役割なしには男性の役割も果たせないのだが、女性の仕事は物を直接つくり出したり金銭に換算されたりしないので、男性の仕事よりも低い価値しか認められない。さらに逆転して、女性の力や価値が男性のそれよりも劣っていると見なされる。またさらに、劣っている女性には男性と同じ役割は担えないと見なされるので、女性が家の外で働こうとしても、責任のある位置につきにくく賃金も低い。それが、女性を家事・育児・介護役割につなぎとめる・・・。このようにして、女性の地位を低めて、女性と男性の役割をそれぞれに固定する。これが性差別による性別役割分業だ。
 しかし、女性にしかできない(生産的と見なされる)役割がある。妊娠・出産・母乳を与えることだ。性差別のある社会は、女性の価値を他の分野で低く見積もる一方で、子を産み育てることにおいて評価しようとする。また、生殖における責任を女性と男性半々ではなく、女性により重く負わせる。こうして、産まない・産めない女性は低い評価とともに非難がましい視線を向けられるが、産むことがてきる女性にも"健康で優秀な子"を産み育てよという重圧がかかる。子どもの障害は、母親に一段と低い評価と重い責任をもたらす。
 このように、性差別と障害者差別のある社会は、女性と障害者双方を"価値の低い者"として扱い、両者の社会的自立を阻み、家庭の内に放置する。とともに、障害者の出生を阻む役割に、女性を駆り立てる。女性差別を通して障害者差別が行われるのだ。女性差別と障害者差別はつながって補完しあい、それぞれの立場をより苦しいものにしている。
(*1) 8年間に538件。しかし手続き上本人の同意があっても、強要する圧力があった可能性は否定できないが。
(*2) 統計に現れただけでも、1949〜94年の間に、本人の同意のない不妊手術が1万6千520件実施された。その68%は女性である。
(*3) 残りの2つの許可条件は、母体の生命・健康が危険な場合と強姦による妊娠の場合である。しかし、「貧困、多産、強姦による妊娠は子孫の劣悪化を招く」という考えが根底にあり、ここにも優生上の理由が潜んでいる。不妊手術においても同様だ。

(2)胎児の障害の出生前診断と、障害をもつ胎児を選別する人工妊娠中絶

1 "産む人の選別"から"生まれてくる子どもの選別"へ

 優生保護法は、病気や障害をもつ子どもを産む可能性のある人に、優生学的な理由による不妊手術・人工妊娠中絶を行って障害者の出生を「防止」しようとした。"子どもを産んでよい人"と"産んではいけない人"を選別したともいえる。胎児の診断が可能になった1970年代以降、優生政策は別な形をとりつつある。1990年代、その傾向ははっきりと現れてきた。出生前診断と選別的中絶による"生まれて欲しい子ども"と"生まれて欲しくない子ども"の選別だ。そしてそれを、国家の強制ではなく"個人の選択"として進めることだ。
 どんな技術も、"中立"ではあり得ない。それを作り出した社会の考え方を反映し、さらに押し進める働きをもつ。しかし多くの場合、その技術が作り出された背景や、倫理的問題、技術が社会をどう変えていくかといったことは充分に検討されることなく、技術の利用が拡大していく。出生前診断も、その道をたどっている。

2 日本における、胎児の障害を見つける出生前診断

 日本で行われている出生前診断には、超音波診断、絨毛診断、羊水診断、胎児採血法、母体血清マーカー検査がある。日本産科婦人科学会(JAPAN SOCIETY OF OBSTETRICS AND GYNECOLOGY)が1998年に受精卵の着床前遺伝子診断の臨床応用を認める見解を出したが、国内での実施例はまだない。母体血にわずかに混じっている胎児の細胞から、DNAを調べる方法も開発されている。
 90年代後半には、1年間に行われる件数は、絨毛診断、羊水診断、胎児採血法を合わせて1万件以上と見られる。母体血清マーカー検査については、厚生省平成9(1997)年度心身障害研究「出生前診断の実態に関する研究」が、全国の医療施設に実態調査を行った。回答した873施設の38%が母体血清マーカー検査による診断を行い、14,682人が診断を受けたことが分かった。5年たった今、この数が減っているとは考えられない。
 超音波診断は今では、胎児の発育を見るため、ほとんど全ての妊婦が日常的に受ける検査になっている。母体血清マーカー検査も、羊水や胎児血診断のような流産のリスクがないことから、妊婦の検査のひとつとして一般の産婦人科医院でも使われるようになった経緯がある。どちらの検査も、妊婦もパートナー(夫)も医師も、何がどの程度分かるのかについての自覚が足りないまま行われ、胎児の障害あるいはその可能性が発見されて、カップルが予期しない難問に直面する場合もある。

 障害者団体と女性団体は、結果として障害をもつ胎児の中絶につながる出生前診断に対して反対の声をあげてきたが、とくに、手軽さから急速に利用が拡大しつつあった母体血清マーカー検査について、問題点を指摘するなどの働きかけを行った。1999年4月に厚生省が発表した「母体血清マーカー検査に関する見解」には、「医師は本検査を受けるように勧めるべきではない」とする一文が入った。

3 「国家権力による優生学」は過去のものではない

 一方、90年代以降の優生学の新しい動向は日本にも影響を与え、生殖医療に浸透しつつある。このことに、障害者も女性も危機感をいだいている。

 WHOが1995年に出した「遺伝医学の倫理的諸問題および遺伝サービスの提供に関するガイドライン(案)」(*4)は、「今日の遺伝医学は当事者が生殖に関して最適な決断を下すことを奨励するのであって、国家権力による強制や民族虐殺と結びついた過去の優生学と決定的に違う」という視点を提示した。これに対して「個人の選択であっても、大多数の人々が結果として同じ選択をするならそれは優生学である」という批判がある。私はこの批判を支持する。
 「国家権力による過去の優生学」は、法制度に反映されて存在し続けいてる。また、長い歴史の中で個人にも内面化されている。「過去の優生学」を払拭するには、それがもたらした病気や障害に対する偏見と差別が誤りであるという情報提供や教育、また法制度の改革を、国が積極的に徹底して行わなくてはならない。1996年の優生保護法から母体保護法への改正で、それがまったく不十分であることは先に触れた。少なくとも日本において、「国家権力による優生学」は「過去のもの」ではなく、「障害者の排除」は現在に機能している。これを無いことのように扱い、個人の選択に責任転嫁するのが、優生学の新しい動向だ。
 たとえば、新しく開発される医療技術のありかたを審議する厚生省の部会の委員(*5)から、「中絶するかしないかは母親、女性の決定権によるべき」「(胎児の障害が)母親にとって負担が強い場合には中絶が許されるというふうになれば、胎児条項はいらない」といった発言があった。障害に対する偏見・差別を基盤に、出生前診断の技術を提供することで、胎児の障害を中絶許可条件として法律に書き加えるまでもなく、女性は障害をもつ胎児の中絶を"自分の意志"で、"女性の決定権として"行うだろうと言うのである。

4 法律・制度に現れない〈制度化〉

 障害をもつ胎児の選別を目的とした出生前診断は、日本において今のところ、まだ妊婦の標準的な医療とはなっていない。しかし、障害者が生きることを困難にする偏見と差別は厳しい。そして、(1)の4で触れたように、性差別が出産・育児の責任を女性により重く負わせ、子の障害についても母親に過重な責任と負担を課している。これらは、女性に対して「障害をもつ子の出産は回避せよ」というメッセージになる。また、つぎつぎに実用化される生殖補助医療は、女性の身体・受精卵・胎児に人が手を加え、選別することを可能にするとともに、そのことへの心理的な抵抗感を薄めつつある。これらが牽引力となって、障害をもつ胎児の選別を目的とした出生前診断は、ゆるやかにであれ増加するのではないかと私は危惧している。だが、増加だけが問題ではないかも知れない。私が怖れるのは、胎児の選別が人々に葛藤を呼ぶ問題ではなくなってしまうということだ。

 今の日本では、胎児の選別について当事者も社会も、まだ倫理的葛藤を失ってはいないように見える。しかし、胎児の選別を目的とした出生前診断の件数が増加してある線を越えたとき、それはもはや標準的な医療だと見なされるかも知れない。「皆がそうする標準的な医療だ」という既成事実が成り立つかも知れない。そのとき、人々が抱える葛藤は、既成事実の前で沈黙するだろう。その行為の是非、それを選ぶ理由を、当事者個人も社会も問うことをやめてしまうとき、さらに多くの人が葛藤をのみこんで、そうするのが当たり前のこととして自ら胎児の選別を行うのではないか。先の厚生省の部会委員の発言も、それを示唆している。そうなったとき人々は、人間の中には必ず一定の割合で障害をもつ人が存在すること、自分や子どもが障害を得たとしても、充分に意義のある人生を送るということを、信じられなくなるかも知れない。
 複数の選択肢があるように見えても、選んだ結果で有利・不利の差が大きいとすれば、そのことは不利を避ける選択に人々を誘導する。法律に明文化されなくても、また、具体的な政策・制度として整備されていなくても、強制がなくても、多くの人が一つの選択肢しか選べない条件のもとに置かれるなら、それは制度化されているのと同じだ。もう一歩進んで、大多数の人々が疑問と葛藤を封じて自発的にその行為を行う状況−−私はそのことを〈制度化〉と呼びたい。
 日本において、障害者差別・性差別による障害児出生の不利は、胎児選別を目的とした出生前診断に人々を誘導している。これがやがて胎児選別の〈制度化〉 に向かうのではないかと、大変に不安だ。

(*4)
  • 「GUIDELINES ON ETHICAL ISSUES IN MEDICAL GENETICS AND THE PROVISION OF GENETICS SERVICES 」WORLD HEALTH ORGANIZATION,1995 日本語版は「遺伝医学の倫理的諸問題および遺伝サービスの提供に関するガイドライン」遺伝医学セミナー実行委員会が1997年9月発行
  • 「PROPOSED INTERNATIONAL GUIDELINES ON ETHICAL ISSUES IN MEDICAL GENETICS AND GENETIC SERVICES WORLD HEALTH ORGANIZATION HUMAN GENETICS PROGRAMME 1998」WORLD HEALTH ORGANIZATION,1998 日本語版は「遺伝医学と遺伝サービスにおける倫理的諸問題に関して提案された国際的ガイドライン」遺伝医学セミナー実行委員会が1998年9月発行
95年版も98年版も、WHOの公式文書とはなっていない草案である。
(*5) 松田一郎熊本大学医学部教授。「厚生省厚生科学審議会先端医療技術評価部会」98年6月22日の第10回部会での発言。彼は「ガイドライン(案)」の日本語訳監修者でもある。

(3)障害胎児の選別的中絶と 障害者の人権・女性の人権

1 障害をもつ胎児選別の〈制度化〉は、障害者差別そのものだ

 選別的中絶の理由の一つとして、障害をもって生きるのは本人が辛いだろうから、と言われる場合がある。ここには親となる人の切ない想いも無いとは言えない。が、本人(胎児)が意思表示できるのでない以上、これを理由にすべきではない。その種類によってさまざまなのだろうが、私の障害に限っていえば、身体の困難と辛さは確かにある。しかしそれが、人間が生きるうえでもつだろう他の困難にくらべて、格段に辛いとも言えないだろうと思っている。「本人の辛さ」は選別的中絶の理由として正当ではないし、むしろ他の本当の理由−−優生学的思考、優生政策−−を、隠してしまう。
 障害をもって生きる困難の多くは、偏見・差別に起因すること、だからそれが取り除かれたら辛さは確実に軽減されることは言うまでもない。障害児の親となる困難と辛さにも同じことが言えると思う。しかし現実は逆だ。出生前診断と障害胎児の選別的中絶が標準的な医療となった(〈制度化〉された)社会では、ある種類の障害児がほとんど生まれなくなったためにその障害への理解が低下し、治療できる医師もいなくなるなど、すでに生まれて生きている障害者をも不利にしている。選別的中絶は、行う人がどんな気持ちであれ、結果としては障害をもって生きることの否定だ。その〈制度化〉は、障害者差別そのものといえる。

2 胎児選別の〈制度化〉は、女性のリプロダクティブ・ライツ(*6)を侵害する

 このこのとを書くには、たくさんの言葉が要る。
 ここまで私は、女性は国家の人口政策の道具にされてはならず、子どもをもつかもたないかについては、カップルとくに女性の意思が尊重されるべきであること、子どもをもたないことを選ぶ人には、その人の意思にもとづいて避妊と人工妊娠中絶が合法で安全に行われるべきであると書いてきた。それはリプロダクティブ・ライツ(性と生殖に関する権利)として尊重されるべきだと私は考えている。しかし、胎児を選別する中絶は障害者への差別であると書き、それはまた女性のリプロダクティブ・ライツを侵害するものだと、これから書こうとしている。
 ここで「?」が生じる。産まない手段としての中絶と、胎児を選別する中絶は、どこが違うのか? 胎児を選別する中絶はリプロダクティブ・ライツに含まれるのか? 産まない手段としての中絶を合法としながら、胎児を選別する中絶の拡大に歯止めをかけることができるのか? といった疑問だ。
 これらに答えるのは簡単ではない。答えようとすると、さらに別な疑問が立ちあがってくる。そのことは、「女性は、子どもをもつかもたないかを自分の意志で決めることができる」という主張自体を難しくしかねない。しかし、選別的中絶の拡大に歯止めをかけることはどのように可能かを考えるとき、これを避けては通れないだろう。少しでも私の回答を試みようと思う。言葉を尽くしきれないし穴だらけなのだが、誰かがそこを埋めて先に進めてくれることを期待しながら。

3 産まない手段としての中絶は、法で罰せられるべきでない(*7)

 マグダ・ディーンズ(Magda Denes)という人が自分の中絶の経験から、中絶の背後に何があるのかを分かろうとして、「悲しいけれど必要なこと」(原題はIN NECESSITY AND SORROW)という本を書いた(*8)。ディーンズは、「中絶は世界中どこでも合法化されるべきだと考える。母親の意志と要求に基づき、国家が無料で提供し、教会が慈悲をもって支持する、安全で威厳のあるものであるべきだ」とこの本でいう。私も全く同感だ。だがまた彼女は、中絶を「人間であることにつきまとって離れない悲劇」とも表現する。本の題名とともに、これも中絶を言い表す言葉として私の気持ちにぴったりおさまる。中絶が合法であるべきなのは、中絶が人間社会から消せない、悲しいけれど必要なことだからだ。

 女性は誰も好んで中絶を行うことはないし、しないですむならその方がいい。子どもをもたないことを選ぶなら、先ずするべきなのは避妊だ。しかし情報が閉ざされていたり、入手し難い場合(現在の日本でも、若い世代はその状況にあるといえる)、避妊しても失敗したり、男性が避妊を嫌ったり性交を強要した場合、期待しない妊娠がおこる。それでも産まないことを選ぶなら、最終的な方法として中絶が必要になる。妊娠する身体をもった女性は、この現実を引き受けなければならない。だから自分の身体・性について知ること、自分の意志を確認し表現し、望まない方向に行かない力をつけることが必要なのだ。その力が及ばなかったとき、中絶という方法を取るのならば、そのことをもまた引き受けて生きる力−−しいて言うならば倫理的な問題を引き受けて生きる力を持たなければならない。だが、女性が産む産まないついて望まない方向に行かない力をつける責任は、他の誰にでもなく、自分自身に対して負うものだ。中絶を行ったことを引き受けて生きるのも、自分自身に対して負う責任である。それを倫理的な責めとして負うのかどうか、そのこともまた、他の誰からでもなく自分から自分に対して問うていく問題だと思う。
 しかし中絶は、女性だけが引き受けることなのか。「悲しいけれど必要なこと」を必要とするのは、女性だけなのだろうか。そうではないと思う。

 中絶には、国の政策、経済や住宅事情、婚姻制度など、個人の意志と努力を越えた社会的な背景がある。そして、行う本人の認識とは別に、社会的な矛盾の解消としても機能してきた。個人を処罰して中絶を無くすことに成功した社会はない。それは、中絶が個人を越えて社会的・経済的・政治的問題でもあるからだ。
 日本の例を思い出そう。第二次世界大戦に敗れる前の日本では、避妊も中絶も厳しく制限されていたが、生命・健康の危険、そして堕胎罪に問われる危険をおかしながら、多くの女性が中絶を行った。その理由の多くは、生活苦または婚姻外の妊娠だ。政府は女性に多産を求めながら育てる援助をしなかったし、日本の社会には性のダブルスタンダードがあって男性には婚姻外の性行動を許しながら、家父長制の家制度を維持するために、婚姻外の妊娠・出産は許容しなかったからだ。敗戦後の1948年に優生保護法の成立で中絶が解禁されたのは、食糧も住宅も極端に不足するの混乱期に、出生の増加で困るのは政府だったからだ。戦前戦中とは逆に、女性には出産よりも働き手として復興を担わせる方がよい。このとき中絶は、まさに国にとって必要な手段だった。経済が立ち直った1960年代、将来の労働力不足が心配になると、今度は中絶規制に向かう力が働いて「日本は堕胎天国だ」という非難の言葉が登場する。その非難の矢面にたたされ、卑しめられたのもまた女性だった。性のダブルスタンダードも婚姻外の出産が許容されにくいのも、日本ではまだ過去の事ではない。
 しかし、中絶が必要とされる社会的側面は公式には認められない。また、多くの人にとって中絶は触れたくない話題だ−−美しくなく、しかし無くすことができず、自分も全くの無関係ではないからこそ顔をそむける。そして、中絶は"愚かで身勝手な女"の行いであるかのように片づけられる。私が怒りをおぼえるのはそのことだ。

 妊娠する身体をもった女性は、できれば中絶以前の方法で期待しない妊娠を避ける責任が、自らに対してあるかも知れない。しかしそれが果たせずに中絶に至ったとしても、それは法律による処罰には当たらない。中絶が必要とされる社会的背景−−矛盾の解消という側面を見ずに、女性だけの問題であるかのように扱うことは不当だ。矛盾の解消を身をもってを引き受け、その責めをも向けられる女性が、さらに法の処罰を受けることは不当だ。中絶を行った個人への法的処罰は、中絶の背後に何があるかをおおい隠してしまう。

4 胎児は独立した生命か?

 産まない手段として中絶を行うことはリプロダクティブ・ライツに含まれ、法で罰するべきではないと私は考える。それは、胎児が生命をもたない、あるいは母体の一部だと考えるからか?そうではない。
 胎児はある時期まで母体を離れて生きることはできず、その期間の胎児を独立した生命と見なしたり、生まれた人間と同じ法的地位を与えることには無理があると私は思う。しかし胎児はその時期を過ぎて母体を離れれば、一人の人間になる存在だ。また私は、生命というものは連続しているとも考えるので、いつからは生命でいつまではそうでないといった区切りもできない。胎児は、生まれた人間と同じではないが人間になる可能性をもった存在、そして中絶とは、胎児が人間になる可能性を奪うことだと私は思う。 それでも中絶が必要な場合があること、法で罰せられらべきではないことを3で書いた。

 しかし胎児をどのように感じるかはさまざまで、私の感じ方もその一つに過ぎない。妊娠した女性にとっても、それが待望の妊娠だったのか、期待しない出来事だったのか、またどちらであっても個人によって、また一人の人でもそのときどきによって、感じ方は異なるしそれで当然だと思う。だからもし胎児を自分自身の身体の一部と感じ続ける女性、逆に、自分とは異なる独立した生命と感じる女性がいても不思議ではないし、否定することでもない(そもそも、感じ方がこの二通りしかないように言うこともおかしい)。個人によって、また一人の人でもそのときどきに感じ方が異なるからこそ、その中のどれか一つに決めて法や制度に反映することはできないと思う。胎児に生まれている人と同じ法的地位を与えることも、できないと思う。

5 胎児を選別する中絶は、産まない手段としての中絶とどう違うのか?
  それは、女性のリプロダクティブ・ライツに含まれるか?


 胎児を選別する中絶は、リプロダクティブ・ライツに含まれないと私は考えている。  胎児を選別する中絶は、産まないことを決めたからではなく、子どもをもとうとする期待のなかで行なわれる。障害のあるなしで、子どもとして迎え入れるかどうかを選ぶ行為だ。私は、胎児は独立した生命ではないが母体の一部でもなく、生まれた人間と同じではないが人間になる可能性をもった存在と考える。そして、生まれている人間に対するのと同じに、その属性で差別することを良いとは思わないし、そうすることはリプロダクティブ・ライツに含まれないと考える。

 胎児を選別する中絶は、リプロダクティブ・ライツに含まれないだけでなく、むしろ女性のリプロダクティブ・ライツを侵害すると私は思う。
 障害胎児の診断と選別的中絶は、優生政策の手段の一つとして登場した。優生政策はすでに、障害をもつことは本人と家族、さらに社会にとって負担であるという深い印象を人々に与えている。これを前提に、胎児の診断と選別的中絶はその解決方法−−本人と家族、とくに母親の苦しみを取り除く方法であるかのように差し出された。この手段をとることは、女性のリプロダクティブ・ライツである、あるいは権利であるという言説もつけ加えられた(厚生省部会委員の発言を思い出してほしい)。それで女性の苦しみは取り除かれるか? そんなことはない。
 胎児の選別を前提とする出生前検査は、女性にとって、生まれてくる子に条件を付けられるのと同じだ。このことは、子どもをもつ可能性のある全ての人にとって、心配の種と圧力になり得る。まずそのこと自体が、リプロダクティブ・ライツの侵害ではないのか。胎児の検査を受けようとするのは、子どもをもとうと決めた人たちだ。その多くの人たちにとって、子を選別する・しようとすること自体が、苦しみであるはずだ。子どもをもとうとする人たちの心配を取り除くために必要なのは、生まれてくる子に条件を付けないこと−−障害児であってもなくても歓迎され、育てる支援があることではないのか。子どもをもつかもたない(もてない)かによって女性が差別を受けないこと、女性に過重な出産・育児責任を軽減する(男性も分かち合い社会的援助がある)ことも、あわせて必要だ。

 今はその条件は整っていない。障害者を歓迎しない社会が障害者が生きることを困難にしているのに、それを無いことのように隠して、女性を子の選別に誘導する、それを女性の責任において行う女性の「権利」だという。これこそが優生学の新しい動向そのもの、女性のリプロダクティブ・ライツの侵害だ。

(*6) 「リプロダクティブ・ライツ」( Reproductive Rights )は、女性たちが人口政策への対抗を表現した言葉だ。日本では「性と生殖に関する権利」と訳す。1980年代に、国際的な女性の健康運動の中で広く使われるようになった。今では、国連など国際機関でも使われ、個人とカップルの基本的権利として認知されている。
 人口政策は国や時代によって異なる。ある国では人口抑制のために避妊・中絶が強いられ、別な国では中絶が禁じられる。一つの国の中でも、健常者は産むことを、障害者は産まないことを強いられる場合がある。しかしどれも、女性の性と生殖が管理されていることでは同じだ。女性はこうした管理の撤廃を求め、さらに、性のあり方・子どもを産むか産まないかを決める自由、産む人には出産・子育ての支援、産まない人には安全な避妊と中絶が合法であること、これらについての情報が提供されアクセスが容易であること、年齢を問わず、また子どもの有無や障害の有無に関わりなく、これらが保障されることなどを求めている。これが女性が主張する「リプロダクティブ・ライツ」の内容だ。
 国や国際機関による解釈・運用は、これとは異なる場合が多いが、ここでは上記の意味でこの言葉を使っている。
(*7) 本人の同意のない中絶は、まったく別だ。ここでは、女性本人の意思にもとづく中絶を処罰すべきでないことを言っている。だましたり、強制して中絶を行なうことは、犯罪として扱われるべきだ。
(*8) 加地永都子訳 1985年晶文社発行

(4)胎児選別の〈制度化〉に歯止めをかけることは、どのように可能か

1 「法律による禁止を」という意見に対して

 胎児選別の〈制度化〉に歯止めをかける方法として、しばしば提案されるのは「障害をもつ胎児の中絶を法律で禁止すべき」という意見だ。日本で障害者差別を禁止する法律案を起草する人たちの中からも、この考えは提示されている。私は、胎児を選別する中絶はリプロダクティブ・ライツに含まれないと考えるが、法律で禁止することには反対だ。また、産まない手段としての中絶と同様に、法律で処罰すべきではないと考える。  「法律による禁止」について、次のような疑問をもつ。まず、障害をもつ胎児の中絶だけを禁止する場合、そうでない中絶とどうやって見分けるのかが問題だ。中絶の可否を見分けるために、胎児診断が必要になるというおかしな事になりはしないか。さらに問題なのは、障害の有無を中絶の可否の条件とする枠組みを、法律の中に作るということだ。私はこれに同意できない。障害をもつ胎児の中絶を積極的に認めることとは正反対だとしても、胎児の属性に応じてその扱いを変える=差別する点では同じではないか。それを法律に盛り込むことを、良いとは思えない。

 障害者差別がこれだけ厳しいときに、思い切った手を打たなければ選別的中絶の拡大を止められない、という意見があるかも知れない。また「法律で禁止する」と言っている人たちは、そう表明することで選別的中絶の差別性を訴えるのが主眼で、行った人の処罰が目的ではないのかも知れない。しかし日本の刑法に堕胎罪がある以上、法律で禁止された(母体保護法の許可条件にあてはまらない)中絶では、女性と医師が処罰の対象となる。私は、女性の生殖が処罰をも含む法規制のもとにおかれ、国の政策に利用される状況を変えたいと思ってきた。選別的中絶の拡大を止めたいと強く願っているが、そのために処罰を含む法規制(国がしたのと同じような)を、女性に向けないで欲しいと思う。

2 出生前診断があることの情報を広めない、という方法について

 (2)の2で、厚生省の「母体血清マーカー検査に関する見解」(1999年)に入った文章のことを書いた。「医師が妊婦に対して、本検査の情報を積極的に知らせる必要はない。また、医師は本検査を受けるように勧めるべきではなく、企業等が本検査を勧める文書などを作成・配布することは望ましくない」という一文だ。
 日本において医師と患者の関係は対等でなく、医師の言葉は患者に強い指示として働くから、「医師は本検査を受けるように勧めるべきではなく」はとても重要だ。しかし、「医師が妊婦に対して、本検査の情報を積極的に知らせる必要はない」はどうか。これには、知らせなかった結果障害児が生まれた場合に医師が訴えられないよう免責することで、検査のマススクリーニング化を防ぐねらいがある。他の出生前診断にもこれを適用して、胎児選別の〈制度化〉に対する歯止めにしたいという期待の声もある。だが、マーカー検査では胎児の障害の確率しか分からないこと、妊婦とパートナーに対するカウンセリング態勢の不備が、この一文の前提である。従って、より精度の高い検査には、あるいはカウンセリング態勢が整った(と見なされた)ときには、有効でなくなるだろう。そして、この方法に対しては、患者が「医療情報を知る権利」の侵害にならないかという意見がある。また同時に、患者の「知らないでいる権利」も、これで本当に護られるのか?という疑問がのこる。

 患者の「知らないでいる権利」とは、医療情報を医師に隠してもらうことではないだろう。その検査のすべての情報−−マーカー検査ならば、分かるのは限られた障害にすぎず、それも確率だけであること、確率が高い場合には羊水検査を受けるかどうかの選択が必要となり、羊水検査には流産のリスクがあること等の問題点、さらに、その障害をもった子が充分に意義のある人生を送ること、実際に多くの障害者とその家族がそうしていること、育てる支援がどのように提供がされるか・・・といったことまでの情報が与えられたうえで、検査を受けない選択もできる=胎児の質を知らないでいること。それが患者の「知らないでいる権利」だ。問題は、障害をもつ子が育つ・育てる情報が少なく、また往々にして隠されてしまうことの方だ。

3 では、胎児選別の〈制度化〉に、どうやって歯止めをかけるのか
  −−反対をいい続けること、しないですむ条件をつくること


 選別的中絶を法律で禁止するのでなく、検査の存在を知らせないのでもなく、胎児選別の〈制度化〉をどうやって止めるのか?このことについて、私はとても平凡なことしか書けない。子どもをもちたい人が、選別的中絶をしないですむ状況をつくる・・・ということだ。具体的に何ができるだろうか。障害をもつ胎児の選別を目的とする出生前検査の、新たな技術開発と実用化に反対すること、そうした検査への保険適用に反対すること。そして、より積極的に必要なのは障害をもつ子を産み育てるための情報と支援の提供だ。

  • 出生前検査の技術開発・実用化、保険適用に反対する
    選別目的の出生前検査が障害者差別であり、女性のリプロダクティブ・ライツの侵害であることを広く訴えることは必要だ。(2)の2で触れた「受精卵の着床前遺伝子診断」について、障害者団体と女性団体は日本産科婦人科学会に対して、強い反対の働きかけを行った。1998年に学会は臨床応用を認めたものの、その承認までに予想以上の時間を要した。こうした働きかけは、専門家の暴走にわずかであってもブレーキをかけ、情報を公開させ、社会に対して問題提起となる。 また、今はまだ顕在化していないが、出生前検査の保険適用が検討されることがあるかも知れない。このことにも反対したい。

  • より積極的に必要なのは、障害をもつ子を産み育てるための情報と支援
    とても当たり前のことだが、選別的中絶をしないですむ状況をつくるというのは、障害者と女性の権利を高めて、障害をもつ子どもを産み育てることが、そうでない子どもを産み育てることとさほど変わらないようにすることだ。障害者差別をなくす法律の提案は、それを法律面から可能にするために重要だと思う。(「選別的中絶の法的禁止」は再考を提案するとしても)ぜひ実現したいと私も思う。同様に、女性差別の撤廃にも法律は重要だ。女性の生殖に対する政策の介入をやめさせるために、堕胎罪と母体保護法の廃止、生殖における女性の自己決定を認める法律を検討したい。
     法律もふくめて、選別的中絶をしないですむ条件とは、どんなことだろうか。すでに書いたことも重なるが、以下に箇条書きにしてみる。
    • 子どもを−−それも健常な子を産むことが女性の最上の役割だと考えることをやめる。
    • 子どもをもとうとする人の障害のあるなしで、格差を生じさせない。障害の有無に関わりなく、リプロダクティブ・ライツ(性と生殖の権利)が護られ、医療・社会的サービスが受けられること。
    • 子どもをもつかもたない(もてない)かで、女性が差別を受けないこと。
    • 子どもをもたないと決めた場合に安全な避妊の情報・手段の入手が容易であること。中絶が安全で合法であること。
    • 生まれてきた子が障害児でもそうでなくても、歓迎されて育てる支援があること。
    • 女性に過重な出産・育児責任を軽減する−−男性も分かち合い、社会的援助があること。
 子どもをもちたいと願うカップルや女性のなかには、障害児の親になることを回避する強い意志を持つ人もいることは否定しない。不安なく障害児の親になれる条件が整ったとしてもなお、障害をもつ胎児の中絶を選ぶ人たちもいるかも知れない。それでも少なくとも、差別によって選択が誘導されるのを避けることはできる。偏見のまなざしを受けず、育てる支援があるなら、胎児の障害をあえて調べない、あるいは胎児の障害が分かっても中絶はやめようと思う人は増えるはずだ。法による禁止ではなく、障害児の子育てがそうでない子育てとさほど変わらない条件をつくる、それが市民の運動としてできることだと思う。

おわりに

 ここでは、性差別と障害者差別との結びつきにおける男性の問題に触れることができなかった。生殖を女性だけの問題として扱うのは不当だと主張しながら、男性の問題について何も書かないのでは、結果としてその誤解を補強してしまうかも知れない。だから、男性も当然関与しているということは言っておきたい。性差別は女性の地位を低めて女性と男性の性別役割をそれぞれに固定し、女性に障害者を直接抑圧する役割を与るが、男性は女性と障害者両方を抑圧する役割を与えられている。そして男性自身も差別・抑圧を受けているし、妊娠・育児の当事者でありながら遠ざけられている。そのことは、男性にとって不当な苦しみであるはずだ。ここまでに書いてきた緒問題について、男性も傍観者ではなく当事者として、ともに考えて欲しい。

 何度も書いたように、私が言いたいのは、障害者差別と女性差別はつながっているということだ。女性差別は障害者差別を成り立たせる要素に、障害者差別は女性差別を成り立たせる要素になっているから、障害者の解放のために女性の解放を、女性の解放のために障害者の解放が必要だということを言いたかった。もちろん男性の解放も必要だ。
 日本の女性運動は、生殖に対する国の介入に反対し、1972年に優生政策の強化と中絶の規制を目的とした優生保護法改訂案が上程されたとき、障害者の運動とともに強い反対運動をおこした。その後も、優生政策は女性への抑圧でもあるととらえて、反対をつづけてきた。しかし、女性と障害者の運動がお互いに信頼関係を築くことは、とても困難だった。女性の運動は堕胎罪・母体保護法の廃止を求め、これに替えて、生殖における女性の自己決定権を認める法律をつくろうという提案している。これを障害者の運動から見るとき、生殖における女性の自己決定権の保障が、胎児選別の〈制度化〉を促進するのではないか? 女性はその危険性に気づいて、対処しようとしているのか? という不安が生じるからだ。女性の側にも、障害者とともに人口政策・優生政策のもとで苦しみ、これに反対している自分達がなぜ不信感を向けられるのか、という悲しみがある。この分断の原因はまさに、女性差別が障害者差別を成り立たせ、障害者差別が女性差別を成り立たせるその関係にある。

 この分断を私たちはそろそろ終わりにしたい。私はこれを書きながら、その想いをより強くした。障害者の運動と女性の運動は、お互いの声と、両者を取り囲む状況に耳を傾けよう。お互いの解放が必要なのだということを何度でも思いだして、組み合わされた差別をともに解きほぐしたいと思う。