「中間報告」は、「ヒト受精胚を用いた研究が人々に多大の恩恵をもたらすことが期待され、その実現のためにはヒト受精胚を用いる以外に方法がない場合には、それによりヒト受精胚を損なうことも「人の尊厳」という理念の堅持を損なうものではない」としている。総合科学技術会議が2004年2月8日に東京で開いたシンポジウムでの西川委員の発言によれば、人のES細胞や人クローン胚の研究は、難病の「根治」を目指すものだという。が、難病に苦しむ人々のQuality of Lifeを改善できる政策や手段は多々あると考えられる。「中間報告」のいうように、仮に「人々の生命・健康の価値や幸福への希求に応えていくことも、健やかな生活を営むことができるという意味で「人の尊厳」に由来する要請である」ならば、さまざまな医療資源が、難病の人々の生活を現実により良いものにするために充分に活かされているか、という検討や議論があるべきだろう。科学的に安全性、有用性が確立される見通しがあるのか否か、あるとしてもどのくらいの可能性があるのか、議論の分かれている研究を喧伝し、推進する前に、医学界や政府がなすべきことがあるのではないか。
生殖技術は、開発されるたびに、その実施や拡大が人々の生命観や身体観、ひいては「人間の尊厳」という社会的な価値観をどう変化させるかの検討が必要だった。それが不十分であったことは、「中間報告」自体が認めている。そうでありながら、研究目的のヒト受精胚の作成を容認する理由も、結局は「必要とする人がいるから」に集約されていないだろうか。
体外受精という生殖技術は、2月8日に東京で開かれた「ヒト胚に関するシンポジウム」で生命倫理専門調査会の勝木委員が指摘した通り、未だ実験段階という要素を持っている。体外受精・胚移植という技術に対する追跡調査は体系的になされていない。体外受精の成功率が上がってきたとしたら、それは排卵誘発剤のつらい副作用と繰り返される失敗に耐えた数多くの不妊の女性たちの苦痛の上に成り立っている。
こうした視点も検証も無いままに、体外受精を「医療として定着したといえる」としている「中間報告」の姿勢そのものに疑問を感じる。このような姿勢である限り、生殖を目的としない受精を容認するという重大な問題を、十分に議論したとはとても言えないのではないか。
《1》受精卵の着床前診断を、容認するべきではない
1.「(着床前診断が)重篤な遺伝性疾患を有する子どもを持つことによる母親の負担をなくすことができる」としていることについて。
まず、「重篤な遺伝性疾患を有する子どもを持つことによる母親の負担」とは、何をさすのだろう。育児、看護、介護、遺伝性疾患に対する偏見にさらされること、子が苦痛を感じないかと案じることなどだろうか。しかし、これらは母親だけが負うべきことではなく、父親も、そして社会も負うべきことである。育児などに関しては、負担を軽減する情報の提供と具体的な手助けが可能であるし、行なわれるべきだ。遺伝性疾患に対する偏見を無くすことと併せて、社会的問題として取り組むべきことがらである。それで全てを解消することができないとしても、親の負担をなくす方法が着床前診断以外にないとは言い切れない。
疾患をもつ子を案じるのは、親にとって確かに辛いことであるだろう。しかし子をもつことにおいて、程度の差はあっても親は案じるしかできないことが多々ある。そして、子を案じる辛さを回避するかしないかは、親にとっての問題であって、子が疾患をどう受け止めるかは、親であっても判断し得ない、子自身の問題である。
2.「着床後の出生前診断の結果行なわれる中絶手術は母親に身体的・心理的に大きな負担をもたらすが、これを避けることができる、といった利点がある」としていることについて。
中絶は女性に対して身体的・心理的に負担をもたらすが、着床前診断の前提である体外受精も排卵誘発の副作用、採卵による身体へ侵襲という女性への大きな身体的・精神的負担を与えることが認識されていない。
それに加え、着床前診断を行なっても、出生前診断とその結果行なわれる中絶手術を避けることができるとは言えない。すでに実施された着床前診断において、着床後に出生前診断を受けた例が少なからずある。その結果、診断の誤りと胎児に損傷があったことが確認されている。ドイツ医師会議は、2002年5月に着床前診断の禁止を望む決議を行なったが、上記のことを、着床前診断に対する異議が正当である根拠としてあげている(*1)。-
着床前診断は技術として確立されておらず、診断が正しかったか否か、診断のプロセスそのものが胚に何らかの侵襲を引き起こさなかったかどうかを確認するために、着床前診断後も検査が避けられないと考えられる。妊娠している女性にとっては、そのこと自体、大変な負担である。加えて、もし、その後の検査で胎児に異常≠ェ認められた場合の女性のダメージは計り知れない。着床前診断を女性の負担を軽減する技術としてとらえること自体、誤りではないのか。まして、それを容認の理由に挙げることは、無責任ではないか。
先にあげたドイツ医師会議の決議はまた、次のようにも言っている。「(選別的な)妊娠中絶が、当該女性に対して深い心理的傷を負わせるものだとしても、その女性には、病気の子どもを産むか、産まないかを選択するチャンスが与えられている。着床前診断は、このような選択の余地を、もはや与えない。」従来の出生前診断は、たとえ選別的な中絶という結果になったとしても、親と親をとりまく社会に、そうすることの是非を問いかけ、ためらい、葛藤する余地を残している。しかし着床前診断にはそれがない。社会は、生まれる子の選別について、葛藤を希薄にしてはならないのではないか。
(*1)第105回・ドイツ医師会議(2002年5月)決議「連邦医師会理事会は、現在、検討されている法的諸規制によって、着床前診断が禁止されることを望む。」 出典:Deutsches Arzteblatt. Jg. 99, Heft 24 (14. Juni 2002), A 1653](市野川・仮訳)
3.着床前診断の容認は生命の価値による選別に他ならない。
子をもとうとする人の問題は、個人の問題であるとともに社会的問題である。「重篤な遺伝性疾患を有する子どもを持つこと」から生じる問題も同様だ。子をもとうとする人が、子が幸せであること苦痛が少ないことを望むのは自然な心情だ。しかしそう望むことと、「重篤な遺伝性疾患を有する子」を生まれさせないことの間には大きな隔たりがある。子をもとうとする人の望みに対して、社会としてできるはずの多くのことがなされていない。優生保護法に現れた「遺伝性疾患を有する」ことへの偏見と差別も、いまだ払拭されていない。そこで着床前診断を容認するのは、「重篤な遺伝性疾患を有する子どもを生まれさせない」方向づけをするのと同じだ。
「中間報告」は、社会的不備から起こる問題や個人を取り巻く優生主義を見ていない。着床前診断容認の論旨も、「診断を受けることは、単なる個人のエゴイズムであるとすることはできない」など、個人とくに母親の問題に転嫁している。あたかも選別的中絶をすること、着床前診断を受けることが「憲法で保障された個人の幸福追求権」であるかのようにすり替えられ、社会的な条件や環境の整備は免責されてしまっている。また、「幸福追求権」と呼ぶ発想は、選別的中絶や、遺伝子や染色体によって、生まれてくる我が子を選別する事態に追いやられている親の苦悩を無視している。子どもをもとうとする女性の幸福追求権≠保障するために社会がなすべきことは、生まれてくる子の選別を個々の女性に課すことではなく、生まれてくる子に障害や疾患があろうとなかろうと(また、生まれてくる子の母親が未婚であろうと障害者であろうと)、どの子の生命も未来も等しく尊重される制度や環境を整備すること、育児責任が母親だけに負わされず父親や周囲が子育てに協力的になることである。むしろ着床前診断の容認は、憲法13条がいうところの「公共の福祉に反し」ないのか、すなわちその容認が、社会が尊重すべき価値観を損なう恐れがないのかという観点から議論されるべきである。
「中間報告」に添付された町野委員の意見「着床前診断について」にも、ここで一言触れたい。子どもをもちたくない人が行なう一般的中絶と、胎児を選別する中絶は、分けて考えるべきではないか。前者は、子を望んでいない人が、避妊ができなかったあるいは失敗した場合に行なう避妊の延長であり、緊急避難であるともいえる。しかし後者は、子をもちたいが、ある条件の子は忌避する行為だ。着床前診断容認の是非を検討するにあたって、子をもちたくない場合の中絶を議論に交えるべきではない。
また委員は、選別的中絶の許容原理から着床前診断の許容性が導かれると言うが、逆である。母体保護法は「胎児条項」をもっておらず、拡大解釈で選別的中絶が容認されているに過ぎない。「中間報告」が着床前診断を容認するなら、それを根拠に「胎児条項」の導入を導く恐れがある。「胎児条項」は胎児の障害を中絶の理由として認めるものだが、障害の有無で胎児の扱いを変える点で障害者への差別となる。とともに、これを設けることによって、女性に障害をもつ子の出産を回避させる圧力となる点も問題だ。このことは、着床前診断でも同じだ。
「中間報告」も、着床前診断が「生命の価値による選択であってはならない」としている。しかし、着床前診断の容認自体が生命の価値による選別にほかならない。
以上の3点から、着床前診断の容認に反対する。
《2》研究目的のヒト受精胚の作成を、容認するべきではない
ヒト受精胚の作成が、何の研究のために行なわれるのか、「中間報告」は具体性が無く非常に曖昧である。これは文章の問題以前に、議論の不十分さからくるのではないか。総合科学技術会議が2004年2月8日に開催したシンポジウムでも、意見の対立が目立ち、専門委員会で議論が十分に行なわれたとは考えられない。位田委員が指摘している「科学者・医師出身の委員」と「非科学者を中心とする」慎重論者との間のみならず、科学者・医師出身の委員である西川委員、高久委員と勝木委員の間で対立している議論も十分に尽くされているとは言えない。科学的な水準においても合意が形成されていない実験や研究とは、倫理を論じる以前の問題ではないのか。
生殖を目的としない受精は、配偶子、胚の材料化、モノ化につながるものであり、この懸念を払拭できうる議論が行なわれてきたとは言えず、委員会は研究目的のヒト受精胚の作成を、容認するべきではない。
《3》人クローン胚の作成・利用を、容認するべきではない
クローン胚の樹立には未受精卵(卵子)が必要だが、それはどこにあるか。卵子を凍結する技術は未だ安定した技術ではない。手術で摘出される卵巣から採取するのか? 排卵誘発、採卵には身体への侵襲、リスクも副作用も伴うが、体外受精を望む女性たちに、研究のために余分な採卵を依頼するのか? あるいは、治療方法の開発を期待する患者の家族の女性から、提供を受けるのだろうか?
これまで行なわれた核移植をしたクローン胚からES細胞を樹立した実験を検証した論文や、先ごろのヒトクローン胚からES細胞を作成したという報道によれば、実験から応用に至るまでに、莫大な数の未受精卵が必要とされることは間違いない。しかし、どれだけの数の未受精卵が必要になるのか、それをどこからどのように入手するかについて、中間報告書では一切触れられていない。また、中間報告は「生殖医療のあり方そのものは対象とするものではない」としているが、未受精卵の採取が行なわれるであろう生殖医療の現場には数々の問題がある。ことに採卵後の処理や、いわゆる余剰胚の処分の透明性の問題をはじめ、不妊で悩む女性の心情が尊重されているとは言い難い現状がある。同様に先端医療の実験や応用の対象となる患者の人権をいかに保障するのかも重要な問題であり、「医療制度のあり方」は決して看過してよいテーマではない。これもまた議論が十分に行なわれたとはとても考えられず、委員会は人クローン胚の作成・利用を容認するべきではない。
2004年2月29日
東京都新宿区富久町8−27ニューライフ新宿東305
電話・FAX 03−3353−4474
SOSHIREN女(わたし)のからだから
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